自分が辛い局面にいる時の方が示唆を得やすい。

この5年間は、楽な局面と辛い局面をとかく行き来する時間だった。

特にこの1年間は辛い局面が多く、結果的にそれが投稿を増やすことになった。

私は、投稿に書くようなテーマは、それをしていない時間にテーマを思いつき、メモに書き溜めておくことが多い。

辛い局面では、このメモに書かれるテーマが尽きることはない。

ただ、それ以前など、楽な局面にいる時には、「書くことがない」状況に陥る。

例えていうなら、

柔道はおそらく重心の保ち方とそれを移動させることが重要な種目だと思っているが、柔道を練習するようになる(プロを目指すようになる)と、柔道をしていない時間でも、人の重心の保ち方が気になってくるのではないか。

歩いている人の中で、それが綺麗な人に思いを巡らせるのではないか。

だが、そのような人も、おそらく柔道を引退した後はそういうことが気にならなくなるに違いない。

そういう感覚である。

辛い局面にいるということは、一種の飢餓状態にいることだと思う。砂漠に1週間放置されたスポンジである。吸収する能力はあるが、水がない状態である。

飢餓状態にいるから、どうしたら生きられるのかを必死で考える。おなか周りに脂肪がついた人と痩せこけた人がそれぞれどうしたら生きられるのかを考えたとすると、全く違う考えに行きつくに違いない。

だから、辛い局面にいることで思考を洗練させることができる。それがその人の持ち味になるし、それがその人の生きる羅針盤になる。

楽な局面にいるということは現状維持を甘んじて受けいれるということである。そこで得られることは全て「割り切り」である。「隣の芝生は青い」を徹底的に排除することができれば、いつでも楽な局面に行くことができる。

全国大会に行かなくていいんじゃない。エンジョイ勢でバレーボールをやっていればいいんじゃない。

そう囁くもう一人の自分。完全に甘んじることができれば、それはそれでよい人生だし、ストイックに走るのであれば、それはそれでよい人生。

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