以前書いた「不勉強と戦わなければならない社会」がよく読まれている。

息苦しい世の中で生きている人が多いことを理解した。

先日会話した方がいる。

どうやらこれまでの小・中・高・大・社会人で恵まれていたようで、それを社会に還元したいと思っているようである。

完全に私見だが、このようなNoblesse Obligeのような概念は嫌いである。なぜなら、このような説を唱える人の中で、"社会の最下層"に接したことがある人は皆無だからである。

フロムが提唱していることだが、精神は子供の時にどれくらい親(特に母親)に寵愛されたかでその熟達度合いが異なる。

母親や父親、親戚や友達、そういった人たちからの承認を経て、「自分は自分であって良いんだ」と自己を肯定するようになる。

しかし、これらの経験がなく、自己を肯定しきれない人がいる。

自己肯定をしきれない人の中には、自己肯定をしきれない自分を認める自分と、それを認めない自分がいる。

それを認めない自分というのは非常に厄介である。普通に生きていれば、誰にも認めてもらえないのだから、どうにかして自分を認めてもらおうとする。

ここまでくれば手段は関係ない。通常は「〇〇ができてすごい」「頭良いね」「優しい子だね」とポジティブな承認を求めるものだが、この段階では、どうにかして自分と言う存在を承認してもらおうとする。

承認してもらうために、攻撃的になって、誰かを平気で傷つけるようになる。

(自己肯定の高低と、社会的かどうかは完全に相関するわけではないだろうから、彼らを社会の最下層と定義するのは非常に失礼だが、ここでは簡便に書かせていただきたい。)

間違いないが、先のNoblesse Oblige説を唱える人は、自分が承認されるためには知らない誰かを平気で攻撃する人と接したことがない。(それができるのがマザーテレサになるのだが、現世でマザーテレサのような人に会ったことがない)

自分のために必要な制度を設備し、手を差し伸べている相手を刺し殺すような人がいる。

実際に、そのような状態になっても、その人は社会的に不利な立場にある人を救いたいと思うのだろうか。

私の周りには学力が高い人が多い。学力が高い人は、基本的にはずっと学力が高い環境で生きてきている。

したがって、学力が高い人は自分が上位2%の学力水準の世界で生きているのに、実際は「まあ上位30%くらいかな、自分よりも頭がいい人も多いし」のように考えている。単に自分だけ勉強ができたけど、残りの70%の人はたまたま勉強ができなかったというようにしか考えておらず、その背景にある理由に想像力を働かすことができていない。

私は、社会を変えるのであれば、不利な立場のある人の環境を資金供与などで構造的に変えるのではなく、全ての人の意識を変えていくことで非構造的に変えていきたい。これについては後日改めて記事にしたい。

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