色々な賢さの人と話してきて思うのが、

「賢い人ほど、クラスター化せず、1つ1つの事物を理解しようとしている」ことである。

例えば、あまり賢くない人は、彼ら彼女らの周りの人で数人そういう人がいるだけで、

「賢い人はみんな、料理が上手い」

「プロ野球選手はみんな、姿勢が良い」

などと、勝手に変な相関関係を見出すことが多い。(疑似相関であるというよりは、単にn数が少ない状態で帰納法的に帰結を導き出している)

しかし、賢い人(賢い人のクラスターに属する人)は、「周りに料理が上手い人もいれば下手な人もいる。そもそも料理を全くしない人もいるので、上手いか下手かはわからない」などと考える。

この差は、大きくは、物事を捉える際の解像度の差であると思っている。

解像度というのは、写真(現実世界で起こったものを自身で理解して描いたイメージ)の画質(dpi)のことである。

解像度が高ければ、葡萄の房だけではなく、1つ1つの実やそれぞれのシズル感・細かい1本1本の繊維まで見えるはずである。

ここまで考えていて思うのは、

①賢い人だから解像度高く物事を考えられるのか

②解像度高く物事を考えられるから、次第に賢くなっていくのか

のどちらなのかということである。

私自身、以前は①だと思っていたが、最近では②だと思うようになってきている。

解像度高く物事を考えることができなければ、賢くなることはできない。

なぜならば、現代社会において、賢いというのは、賢いということの能動的・受動的表現が必要であり、それを表現するためには解像度を高めて結晶化した言葉が必要不可欠であるからだ。

第一に、賢いというのを周りの人が認知し、自身にフィードバックされる環境がなければ、自身が賢いということを認知することは難しい。

周りからのフィードバックがなく、自身で自身の賢さを言語化することなく、自身の賢さを認知することはできなくはないだろうが、ケースとしては多くはないだろう。

次に、賢いというのを周りの人が認知するためには、自分が賢いことを示すアクションを自身が周りに対して行わなければならない。

これは、学校のような、定量的な点数が頭の良さを想起させるようなケースは別として、現代社会のような、定性的な出来栄えで頭の良さを想起させるようなケースを前提とすれば、多くは言葉を用いた表現力を必要とするだろう。

最後に、解像度が高くなければ、高い表現力で言葉を用いることができない。解像度が高くなければ、葡萄の写真を見て、「房がある」としか言えないが、解像度が高ければ「この葡萄はみずみずしい」「実の色が言葉っている」「この葡萄を食べてみたい」などと色々な表現ができるようになる。

それらの表現をまとめてクリスタライズされたものを見て、周りの人は「この人は頭が良い」と考えるようになり、「頭良いね」などとのフィードバックを受け、それを真に受けて頭が良い=賢い行動をとるようになり、実際に頭が良くなる。

このような論理で、賢い人が完成するのだと思う。

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