不勉強は馬鹿の証である。
不勉強は必ず分析下手である。
分析というのは、一般的には一定量の事実・データがあり、そこからある示唆を導き出すことであるが、私たちの生活に落とし込んで考えると、ある人の仕草・行動・表現から、その人が考えていることを予測することである。
分析の精度を上げるためには、誰もが勉強しなければならない。
つまり、ある人の仕草・行動・表現から、この人はこう考えているかもしれないと予測し、それを前提に振舞う。
直接的には確認できないかもしれないが、それが合っているか間違っているかを理解する。
この繰り返しによって分析の精度を上げることができる。
しかし、大抵の人間は分析することに無頓着である。
というか、彼らが定義する分析は、単なる思い込みであって、他の可能性を全て排除している恣意的な予測に過ぎない。
彼らは、こういうことをするということはこういうことであると、最初からそれが結論だと思っている。だが、分析というのは、あらゆる可能性の中から1つの答えを選び抜くということである。
不勉強のまま、大人になるということがありえる。だいたいの大人はそうだ。
彼らは、自分が見たい範囲の世界を見たいように解釈することしかできない。なぜなら、彼らのこれまでの"分析"は全て他の可能性を排除しているような恣意的な予測であったからだ。
だから、彼らはたとえ夢の中にいたとしても、自分たちが幸せな生活を送っているのであれば、それは幸せなのではないか?などと思い込む。
脱線したが、社会生活においては、分析下手はその時に思ったことをよくも考えずに話す癖がある。
Aという事象、それと類似のBという事象、それと類似のCという事象がこの順で立て続けにおきたときに、それを迷惑に思っている〇さんが「そろそろCはやめてもらえますか?」などという。
分析下手の×さんは「いや、Cはこの意味で必要だったからやりました」などという。
〇さんはその理由でCをやったのはわかるけど、その理由だったらAとBをやる意味がないのだがと思うが、面倒くさいので黙り込む。
みたいなケースが頻発する。
分析下手は、その文脈でその時それをやった理由を適当な思い付きで話すが、そこには一貫性がない。その場を切り抜けられれば良い。少なくともそのような行為をした自分は全うであるという証明がその場でしたいと思っている。不勉強で分析下手なくせに、変に負けず嫌いなのである。
そういう人と接する人(〇さんのような人)は、×さんとのかかわりが面倒に思うので、できるだけ関わらないようになる。
でも、なぜそうなっているのかを分析して考えることができない×さんは、「〇さんは△△な人だったから、私が元々嫌いだった」などと勝手に合理化して理由をでっちあげる。
その繰り返しで×さんは孤立する。×さんはそれを他責にする。
だから、不勉強であるというのは馬鹿の証であった。不勉強であるという事実が自分を不幸せにするのである。
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