人との会話は難しい。

会話は、聞き手の理解力に合わせて話し手が話さなければ絶対に成り立たない。

だが、多くの場合、話し手は、彼らが話し始める時点では、聞き手の理解力がどの程度あるのかはわからない。

だから話し手は話しながら、聞き手のリアクションを確認し、理解力がどの程度なのかを推察する。

多くの人はこれができていない。

だから、話し手の実際の能力はさておき「この人は冗長だ」「この人の言うことはわからない」などとの烙印を押されてしまう。

この話をすると、話し手は、理解力がかなり低い人でも理解できるような易しい言葉を話すべきだと考える人もいるだろう。

しかし、それは違う。

例えば、「没入することとは何?」と聞かれたとしよう。

その質問者が大人であれば、「意識が自然と対象物に向いてしまうこと、対象物以外のことを考えられなくなること」などと言うだろう。

しかし、その質問者が子供であれば、上記は理解できないだろうから「好きになること」などと簡単な言葉で話すだろう。

だが、理解力が一定ある大人に対して、「好きになること」と話したら、あまり理解してもらえないだろう。

これは、わかりやすい例だったが、つまり理解力が高い人にとっては理解力が低い人向けに話される言葉は億劫に感じるということである。

したがって、その人の理解力にぴったり合った言葉を話さなければならないのだ。

この前提で、私は一段飛ばしの言葉を好む。

一段飛ばしというのは、ざっくりお互い既知である情報は割愛しながら話す会話スタイルとでも言おうか。

一段飛ばしの会話は、シンプルだから好きだ。AとBのどちらかが正解でしかない状態で、Bは正解ではないという情報を発見した。そうすると自然とAが正解であるとわかる。書いてみればそうなのだが、一段飛ばしの会話ができるときは、

「AとBのどちらかが正解でしかない」(これも往々にして省略される)

「Bは正解ではない」

で会話できるのに対し、その会話ができないときは、

「AとBのどちらかが正解でしかない」

「Bは正解ではない」

「Aは正解である」

という会話をしなければならない。

お互いのプロトコルが合っていれば、二段飛ばし・三段飛ばしでも良いと思うのだが、これらは結構高い会話力が双方に求められる。

なぜかというと、二段飛ばしの会話になった途端、想定しなければならない既知の情報の種類が極端に増えるからである。(数学でいう、一次方程式と二次方程式の差分に等しい)

だから、少なくても私にとって一番心地よい会話は一段飛ばしの会話ということになる。

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