一度しかチャンスがないから面白いというものがあるように思う。
例えば、高校受験などであろう。
私は地方の高校出身だが、高校受験で浪人をする人はまずいない。
そうなると、高校受験は人生の中で一度しかないチャンスになる。
一度しかチャンスがないということは、ボラティリティがあるということである。
さいころを1回振って、6が出る確率は1/6である。
じゃあ、さいころを10回振って、10回6が出る確率はいくつだろうか。
これも1/6になる。
しかし、日常生活で仮にさいころを10回振ったとしても、ぴったり10回6が出ることは多くはないだろう。
ただ、数兆回そのような試行をすることで、その確率は1/6に近づく。(これを大数の法則という)
ボラティリティがあるということは、例えばチャンスを勝ちうる人の下位25%が入れ替わることが大いにあるということである。
高校受験で200人受けて、100人が受かる学校があったとしよう。ボラティリティがあるというのは、例えば合格者100人のうち下位25人は、不合格者100人のうち上位25人と、試験の出題問題によっては入れ替わる可能性があったということを指す。
わかりやすく25%という数字を用いているが、実際はこれが変化する。ボラティリティが大きいと、この割合がさらに高まる。
仮にボラティリティが全くなくなった世界を考えてみよう。
高校受験の例をそのまま使うと、ボラティリティがないというのは、例えば、本試などを行わずに、小学校~中学校までの全ての成績をもとに、その成績が高い順に100人合格とするなどと決める状態である。
実際、1回の試験ではなく、複数回の試験・中学校在籍時の成績をもとに合否を判断しようという動きも社会的に存在する。
それで、ボラティリティがなくなった世界では、皆幸せなのだろうか?
私は、皆幸せにはならないと思う。
なぜなら、仮に先ほどの幅がある時間軸での成績をもとに合否を判定するとすると、その時間軸の中でも常に頑張り続けなければならない。さらには、その時間軸で高い成績を出すために、時間軸よりも前の勉強を頑張らなければならなくなる。
つまり、小学校~中学校までの全ての成績をもとにするのであれば、小学1年生から塾に通わないといけない。さらには小学1年生から良い成績を出すために、3歳児から勉強を始めないといけない。
だが、それは子供にとって幸せだと言えるのだろうか?
ボラティリティをなくすということは、均一性をなくすということであり、皆同じ生活をするということになる。
無機質でロボットばかりが生きている社会ならそれでよいだろうだが、私たちは生身の人間である。
幅広く考えると、人生も1回きりのチャンスであると捉えることができよう。
人生が2回経験できるのであれば、某書籍が言っているような「強くてニューゲーム」ができることになる。
さらに、人生がn回経験できるのであれば、「強くて×(n-1)ニューゲーム」ができることになる。
そうすると、皆強い状態で人生を始めたくなるのではないか。皆が強い状態というのはボラティリティがない状態である。
ボラティリティがないと皆同じ生活が強いられる。世の中にマッチョしかいないとすると、世の中の人は皆ゴールドジムに行き、毎日鍛えていると言えるだろう。
1回しかチャンスがないから楽しい。ボラティリティが大いにあるから、他の人の体験を自分のことのように噛みしめられる。
直感で人に恋することができるし、砂場のお城を自分で作って自分で壊すようなことができる。
---
初出: 投稿