耽るとは、「一つの物事に熱中する。夢中になる。」ことである。
だけど、最近は耽ることができる機会が減っているのではないかと思う。
1つの物事に熱中するというのは、簡潔に言えば「それ以外のことを考えられなくなる状態になる」ということである。
耽るというのは、中毒になるというのと近い。
中毒になるという言葉にネガティブなイメージを持つ人も多いだろうが、対象が異なるだけで、その実のところは耽ると同じである。
「耽る」を実践するときに、最も重要であることは「個人がそれを体験している」ということである。
つまり、第三者がそれをやっているのを見たときに、個人がそれに耽る・中毒になっているとは言えない。それは、「第三者がそれをやっているのを見る」という行為(つまりは見る専)に個人が耽っているだけである。
だが、私は「耽る」という行為は「それ以外のことを考えられなくなる状態になる」ということであると述べた。
野球観戦が好きな見る専がいたとして、「野球を見ること以外を考えられなくなる状態になる」ということはありえないと思う。
耽るというのは、それ以外のことが考えられなくなり、その中でのあるシチュエーションが起きたときに、自分だったらこういうことをするんだろうなあという、空想上のスナップショットを描いていく行為である。
例えば、野球においては、自分がピッチャーだとして、相手打者が例えば背が高くて、四番選手でバッティングもうまい。今が満塁のこの回で打たれたらまずい。絶対に押さえたい。この時にどのような投球をするのが良いのかな。
などと野球をしていないときにも考えてしまうという行為を耽ると呼ぶのである。
耽るという行為を通して、メタ的な状態の中であえて非メタ的なことを空想する経験を積む。
耽ることを経験したことがない大人は、どうすれば耽ることができるのかがわからない。
情報の波にさらされる中で、何に没頭すべきかがわからない。
没頭したい物事が現れ出たとしても、どうやって没頭すればよいのかわからない。
そうしているうちに老けていく。
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