自分を天才と思いたくない凡人が多い。

彼らは、なりたい自分を肯定するのではなく、今の自分を肯定する。

今の自分が持っていないものは肯定することはできない。

SNSで、

  • 常日頃誰かをねたむような投稿をしている人、
  • (今の自分を肯定するがために、)身の丈の合わない投稿をしている人

がいるのもそのためだろう。

そういった人は、自分が持っていない能力を持つ天才を排他する。

田舎では、「"天才"の言っていることはよくわからない」という皮肉が飛び交う。

天才が凡人を排他しているのではなく、凡人が天才を排他しているのだ。

排他された天才らは、自分らで固まり、徒党を作り出す。

だが、根本では、天才と凡人が違うところなど、何一つない。

ただ結果的に、天才は凡人よりも努力ができただけだし、それをもって、努力ができる素養のある人のみが天才になれるのだ(=努力ができない自分は凡人なのだ)という論理に帰結させることはできない。

なぜなら、努力は「やればできる」からである。

誰もが「やればできる」だけの努力をして、天才になる可能性はあるのに、

「自分は努力ができない人間だ」と思い込んで、努力をすることを諦めている。

こうなってしまうと、凡人はなるべくして凡人になっていると言わざるを得ない。

改めて考えると、成功者が話す成功の道筋はどれも似たり寄ったりのものになる。

  • 成功するかどうかは運要素がある
  • でも、挑戦しなければ成功しない
  • 成功するために努力を続けよう

としか言っていない。この3要素を数多の言葉を使って書いているだけだ。

自分が憧れてしまったものに成ることはできない。

憧れは排他的な感情である。努力をしないための言い訳である。

存在を認めることと、存在を偶像にすることは全く違う。

酸っぱい葡萄は、実は甘くて美味しい葡萄なのである。

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