浅慮が嫌いである。

カップルが喧嘩するときも、女性側の指摘に対して、男性側が「何も考えてなくて、その発言をした」と答える。余計に女性が怒る。

男性側の浅慮である。

閑話休題。

浅慮は嫌いなのだが、「何も考えていないところに価値がある」ことがある。この時の浅慮は熟慮よりも、意味があるものになる。

例えば、登場人物Aの夢がプロサッカー選手だとする。地方の幼稚園からサッカーをはじめ、中学生ではサッカー部に所属した。高校ではセレクションに通過し、東京にあるユースチームに所属することになった。現在は、高校1年生であり、プロサッカー選手になろうとしているが、なかなかプレーがうまくならず、壁を感じている。(漫画「アオアシ」をイメージしてもらってよい)

こういった状況の中で、中学生の時の部活同期から言われる「(よくわからないけど、)お前ならやれる」はかなりの励みになるのではないか。

この状況の中で、中学生の部活同期は、中学生のころからAはサッカーが上手く、ユースチームのフィールドでもうまくやれるということを信じて疑わない。

実際には、部活動→ユースチームに求められる能力はかなり変化する。変化するというよりは全ての能力に対して、求める水準が上がるといってもよいだろう。

しかし、それを中学生の部活同期は知らない。

知らないが、Aがうまくやれることを信じている。だから「(よくわからないけど、)お前ならやれる」と言うのであろう。

感覚としては、「Aの能力の高さを(部活同期が)信じている。だからAの能力が高いという事実がある。」(とAが自己認識できる)というところか。

熟慮とは、できるだけ多くの可能性について考えることである。ただ可能性というのは、常に今を基準に将来と線を結び、その間で発生するもののことである。

だから、今が「詰んでいる状態」で、詰んだ将来と線を結んだとて、可能性というのは「詰みゆく事象」にしかなりえない。(将棋で「盤面が非常に悪く、詰めろの状態」を今とされたとして、熟慮してもネガティブなことしか浮かばないだろう。)

熟慮すればするほど、「詰みゆく事象」の鮮明さに病むことになるだろう。

これを打破するのが浅慮である。浅慮とは先ほども言った通り「何も考えていない」ことだが、「何も考えていなかった」状態と、「あえて考えなかった」状態の2種類がある。

前者を「無思考」、後者を「戦略的無思考」としよう。(※)

戦略的無思考だから、価値を宿す。戦略的無思考とは、あえて今の状態を適宜せず、ただより良い未来を目指すための態度なのである。

(※)

ここでは、他者から見た時の分類のことを指している。その思考をしている当事者は単に「無思考」であることが多いが、他者からそれを見たときには「戦略的無思考」に見えることがある。「戦略的無思考」はその時に価値を宿す。

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