学生の時は頭の良さは数学力だと思っていた。
しかし、社会人になった今では頭の良さは国語力(日本語力)だと思っている。
なぜなら、習熟というのは経験したものを言葉に落とし込むことを積み上げることであるからだ。
- ・・・・・・
ベルリン・フィルハーモニー・ストラディヴァリウス・ソロイスツという管弦楽団がある。
彼らは世界最高峰と呼ばれる管弦楽団である。
そこに今のあなたがいきなり管弦楽団のメンバーになったとする。
入団1日目からヴァイオリンを持たされて、鬼の特訓が始まる。
でも、あなたはこれまで楽器を弾いたことがない。最後に弾いたのは小学生の時の鍵盤ハーモニカである。
あなたは必死で練習しようとする。
「ヴァイオリンをあごと肩で支え、そのボディの表面が斜め上を向くように構えるんだよ」
「弓でこすりながら、ボディ全体で共鳴させて音を奏でて」
管弦楽団のメンバーから言われるがまま、あなたはヴァイオリンを演奏しようとする。
- ・・・・・・
このようなケースがあった時、管弦楽団のメンバーが①ドイツ語しか話せない場合と、②ドイツ語だけでなく日本語も話せる場合を考えよう。
この時、ヴァイオリンの習熟速度は同じなのだろうか?
あなたはドイツ語が話せないのだから、(話せたとしても、ここではそういう仮定をおいてほしい)
①のケースでは、管弦楽団のメンバーがジェスチャーで弾き方を教える。
②のケースでは、管弦楽団のメンバーがジェスチャー+日本語で弾き方を教える。
全く初めてのものにおいては、言葉がないと動作を習得することが難しい。
細かいヴァイオリンの位置、指の動かし方、弓のこすり方などは、言語があることで理解しやすくなる。
- 両足で重心を取る
- 肩の力を抜く
- 弓をまっすぐ動かす
- 脇を締めない
- 右ひじを伸ばしすぎない
- 左手の人差し指と親指の間に適度なスキマを設ける
こういったものは、言葉を介さず、そのまま理解することは極めて難しい。
理解できないものを再現性高い様式に落とし込むために使われるのが言葉である。
②のケースだと、日本語で上記を教えてくれる。
だから、習熟のための「コツ」を理解しやすい。
コツがわかると、後はコツの中でうまくできるものとうまくできないものに分ける。
うまくできないものはひたすら練習する。上記であれば弓をまっすぐ動かすなどは、初めはうまくできないだろうから、反復練習でそれに取り組むことになるだろう。
何かを始める時に、よく0から取り組もうとする人がいる。
ゲームを始める・家電を組み立てる時に、チュートリアル・取扱説明書を読まないで始めようとする人がそうである。
もちろん、0から取り組むことにロマンを感じる対象に対しては、それでよい。
ゲームは0から始めることに醍醐味を感じる人はいるだろうし、家電もあえて0から組み立てることでより愛着が沸く人もいるだろう。
しかし、退屈なことは早めに終わらせるのが肝である。
習熟には言葉が必要である。
難解な漢字を読めるようになる必要はないし、誰も知らない四字熟語を知る必要もない。
より一層、国語力を極めたい。
---
初出: 投稿