以前、体の疲れに悩んでおり、眼科でそれを相談したことがあった。

私は重度の近視であり、普段はコンタクトレンズを使用している。

眼科医からは、「普段使っているコンタクトレンズの度が高すぎる。例えば車の運転をするときには、今のレンズの度で良いかもしれないが、日常生活においては必要がない度の高さである。度が高すぎると、視野内の対象物が細かく見えすぎてしまうため、それで脳が疲労を感じてしまうのではないか」と言われた。

現在は、今のコンタクトレンズを使用すると視力は1.2程度見えているのだが、日常生活では0.8程度見えれば問題ないらしい。

最近では、処方してもらうコンタクトレンズの度を下げてもらっている。

話は変わるが、思うに、何かを習熟するときには焦点を合わせるべきものに焦点を合わせること、焦点を合わせるべきでないものには焦点を外すことの両輪が必要である。

焦点を合わせるべきでないものにも焦点が合っていると、複数のものにマインドシェアを割かなければならない。単一のものにマインドシェアを割くことができないのでは、習熟効率が格段に落ちる。

逆に、焦点を合わせるべきものに焦点が合っていないと、何も習熟することができない。

この両輪をバランスよく回すうえで難しいのは、「何かを習熟することの経験値がそもそも低い人は、焦点を合わせるべきであるものとそうするべきでないものの判断がつかないこと」である。

簡単にいうと、これまで頑張って何かを習熟した経験がない人(全部が中途半端な人)は、何を習熟すべきかがわかっていないのだ。

これまで頑張って何かを習熟した経験がない人は、その人にとって何を習熟すべきかを未来起点で理解することができない。

「なりたい自分がある。だからこれをこの期間で習熟しよう。」という発想にならないのだ。

そうした人は、その時自分が習熟したいものを"触る"ように習熟する。ただ触っているだけなので、習熟できない。これまで習熟した経験がないため、どの期間頑張ればそれを習熟することがわからない。たいていはその人が習熟できる期間よりも短い期間で習熟できると勘違いしている。

結果、適当な理由(自分には「それが向いていなかった」「他に頑張るべきものがあると思った」などという無価値な理由)で諦めてしまう。人間は弱く、それを習熟するまでの期間が読めていない状態ではすぐに諦めてしまうのだ。(SNSか何かで、岩を掘る人がいて、もう少し岩を掘れれば宝石に当たるのに直前で諦めてしまう画像が出回っているだろう。あれと同じである。)

賢くない人は、「Aという領域で習熟したとしても、Bという領域で習熟するのとでは”頑張り方”が違う。したがって、何か1つで習熟しても他の領域での習熟効率は必ずしも高まらないのではないか」と言うだろう。

これは否である。何でも良いが、ある領域で習熟した経験は、全然異なる領域で習熟するときの効率を必ず高める。

スーパーマーケットで本気でレジ打ちを習熟するためにした経験は、本気で戦略コンサルティングを習熟する経験に必ず活きる。

結論、まずは理想とするものを定義しながら(=師をもちながら)、けた違いの量をこなす。師からのフィードバックと量からの(自分思考での)フィードバックを通じ、質的な改善を行う。この量からの質の転換のタイミングは、過去の習熟経験に由来する”センス”で決める。

これをすることで何かを習熟することができる。

「何を頑張ってもうまくいかない」

そのように言う人の論理は理解できる。

だが、「何を頑張ってもうまくいかない」人は、思考体系が「何を頑張ってもうまくいかない」ことを良しとしている。

何かを頑張れば、必ず結果は出る。厳密には結果が出るか出ないかは多くの場合、運がつきものだが、これまでの人生で本気で何かを頑張っていれば、(5歳児でもない限りは、これまでの人生では運がつきものの中で結果が出せる程度の時間があったはずなので、)既に結果は出ているはずである。

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